私は墨田区寺島6-125番地で昭和7年5月15日に生まれ、小学校は東武線玉の井駅際の第二寺島尋常小学校でした。当時隣近所の方々から可愛がられていましたが、小学校2年の時に第二次世界大戦(昭和16年12月8日)が始まるや「支那人!チャンコロ!」と投石等の苛めが始まり、妹を連れての登下校は大変でした。父は突然敵国のスパイとして向島警察署に拘留され、数々の拷問・暴行を受けたのでした。しかも小学校5年の時でしたか、当時空襲による被害を最小限に食い止めるために家の立ち退き(強制疎開)があり、私の家は寺島から吾嬬町のいわゆる北十間(東武亀戸線曳舟?亀戸間に存在していた駅)近くに転居させられましたが、ほぼ同時期に私は学童疎開で茨城県の竜ケ崎の駅前の浜田屋旅館で生活が始まりました。小学校6年の時中学進学の為、当時ナンバースクールの内有名な一中・三中・七中・十一中の内の七中に受験の為、3月3日[雛祭りの日]に東京に戻りました。その夜B29が照明弾を東京の上空に撒き散らし、輝々と空が明るくその時初めて防空壕に入った夜でもありました。その照明弾投下は後で考えれば3月10日大空襲の為の地形確認再調査でしたか?
3月10日夜はあちこちで火災が発生し隣組の人々が「早く逃げよう!」と必死に勧めるのを振り切り、頑固者だった父が「住家に火がつくのを見届けてから逃げる」とバケツに水を汲み家に掛けて防火をし、最後まで頑張ったのでした。結果的にその"頑固"が私達に命拾いをもたらしました。家に火がついてから亀戸線の線路に上り亀戸方面に逃げましたところ、線路の両側は物凄い勢いで燃え盛り小学校6年の私は毛布を覆っていましたが、毛布はフェーン現象で強い風で吹き飛ばされ、手を引かれ両側火の中を北十間駅に向かって歩くや直ぐ短い鉄橋を渡り、有難い事にその場所は既に焼失していて焼き野原になっており、やっとの思いで父・母・我が家の裏の小母さんと私4人が安着したのでした。
朝もやが取れ始め周りが明るくなると同時に、びっくり驚いた事に寄り掛ってまどろんでいました物体はなんと!!真っ黒焦げになっていた焼死体でした。すっかり明るくなるや各地の火が焼け切り静寂しきりで、焼け跡には焼死体がゴロゴロと様々にあちこちに散在し、肝を冷やし子供心に合掌をした次第でした。その日から隣組の人や友人・知人を父に連れられて尋ね歩きましたが、とりわけ先に逃げた隣組に大部分の人々は暑さに耐えかね、難を逃れようと平井橋際、北十間川・十間川に飛び込み溺死し、川という川は累々と死体の山という有り様でした。残念ながら隣組の人々とはそれっきり出会う事はありませんでした。特に今でいう明治通りが通る亀戸駅ガードには死体が山と積まれて暫くは壁面に人間の脂が移り消えなかったのでした。
今やスカイツリーは東京の新名所として各方面から期待され日々騒がれていますが、基礎のある足下の十間川の際に足を踏み入れる前には歴史・過去を広く知らせ、教え、そして瞑目・合掌してから見学して下さい。宜しくお願いします。
現在、東武鉄道経営者や工事に参加している方々や近隣の方々は世代交代して多分伝えられず、そんな歴史の一コマを露知らずしている事と思います。やはり東京の歴史とりわけ第二次世界大戦中の忌まわしい一コマですが、広く喧伝される事をマスコミ関係者の皆さん、ジャーナリストの皆さん、スカイツリー建設にあたって宜しくお願い申し上げる次第です。