ラバウルからの便り

2年ぶりの再会は昨年の12月。ラバウルから再び便りが届いた。

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オイスカ後藤研究員と「子供の森」計画の子供たち。

私は、フィリピン経由でラバウルへ、「無事に」といいたいところですが、ラバウルの空港が火山灰の影響で閉鎖されているというニュース。そのため、ポートモレスビー(POM)からマヌス島経由でニューアイルランド島の州都ケビエンまで飛び、そこから船で14時間かけラバウルへ。夜明け前に船から見たのですが、ラバウルの火山「タブルヴル山(日本名「花吹山」)」は盛んに活動していて、闇夜に打ち上げ花火のような火柱を高く上げ、時折岩も吹き上げているのがわかります。「ゴー」と地底からのうなりが聞こえ「地球は生きている」と感動しました。

ラバウルの港には副所長フランシスが迎えに出てくれていて、私が最赴任するオイスカラバウルエコテック研修センター(ラバウルセンター)に到着、フィリピンを出てから4日かかって、ようやくラバウルに到着した次第です。

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パプアニューギニア・ラバウル研修センターグラウンドにて。

ラバウルセンターは21年前の1988年に開所しました。当時、国の大臣の要職にあったマーティン・トバディック氏を筆頭とする有志の人たちが、パプアニューギニア(PNG)の将来を担う若者の教育を託せる団体を世界各国に捜し求め、当時すでにアジア・太平洋地域の人材育成に実績があった日本を発祥とする国際NGO「オイスカ」を知り得ました。その取次ぎをしたのが岸信介元首相だったそうです。そして、わざわざ日本まで来て「是非PNGに研修センターを作ってほしい」と要望されました。

トバディック氏は戦時中駐留した日本の兵隊さんに好印象を持ち、礼儀や規律を重んじ、親切で勤勉、現地の人を対等に見てくれたと話されました。この地は陸海軍とも厳格な規律の下、住民と共生し駐留していたようです。

更にオイスカ本部の窓口となった役員の一人に秋重義孝先生がいます。戦中、スマトラ攻略やガダルカナル、ブーゲンビルでの戦を実体験された方で「ラバウルで活動すれば多くの戦友達も応援してくれる」との信念で強く推進されました。先生は今現在90歳を過ぎても壮健、聡明で福岡県甘木市(現筑後市?)に住んでおられます。私がラバウルに赴任する時、「慰霊碑の参拝を怠るな」と進言して下さいました。

PNGは、オーストラリアの南に位置し、国土は日本の1.25倍あるにもかかわらず人口は700万人。この人口も推定で調査が及ばない奥地部落があるようです。未だ熱帯特有の深いジャングルに覆われた地域が多くあり自然の宝庫、「地球最後の楽園」といわれている国です。

ラバウルセンターには、PNG全国から農村青年が集い、規律や人格形成に重きを置きながら、有機農業を基礎とした研修を実施しています。

昨年2008年は、10ヶ月間の長期コースとして、PNG全20州のうち18州からの青年74名を卒業させました。また2?4週間の短期コースもあり、東ニューブリテン(ENB)州の各部落から選出された100名の農民研修や、JICAと協力しマダン、ウェワク州の役人、教員、農民を対象とする稲作普及研修等も実施しました。

センターでは毎日5時30分起床、5時50分に点呼、国旗掲揚、早朝鍛錬を行います。国旗掲揚ではPNGの国旗、センターが位置する東ニューブリテン州(ENB)の旗と共に日の丸も掲げます。雨の日には「君が代」斉唱、研修生たちは皆歌えます。決して強制してるのではなく、スタッフの殆どが日本で研修した者で構成していて、日本式の研修に誇りを持ち、日本を尊敬してくれています。

戦中ここに駐留した日本人、日本で研修を世話してくれた人たちが築き上げた日本人の好印象を、今ここにいる私たちは継承し、奢ることなく勤めたいと思っております。

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執筆者プロフィール
澤井 勝之:岐阜県出身。中野学園(現オイスカ高校)卒業後、昭和52年オイスカ入り。中部センター・四国・青森・静岡など各地で組織を担当。またオイスカ高校で10年農業指導、本部でも3年勤務。05年4月より万博推進室部長として再び中部センターへ。平成18年12月パプアニューギニア・ラバウル研修センターへ異動。現在、同センターの所長を務める。

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