素顔の保坂さんぞう

敦子夫人との結婚が転機、一時は、破局の危機も。

父の後援会で、出馬の挨拶。左、両親。隣は、妻の敦子。右下、上条台東区長。

昭和41年秋、 薄給のまま敦子と結婚。(妻敦子の岳父は、葛飾区議会8期をつとめた大先輩)昭和46年、 台東区議会に父三朗の後継として、 地元から推薦を得て出馬する。 しかし、 妻敦子と結婚時の約束は 「絶対に選挙に出ない」 だった。 このため、 破局の危機を迎えたが、敦子の父のとりなしで、人生を救われ初陣を飾れた。既に長女が生まれていた。元通産大臣・深谷隆司氏とは、 それ以来の縁。 47年暮の総選挙で深谷衆議院議員が劇的に誕生するや、 その後継として都議選に出馬。 激戦の中を当選、 弱冠33才だった。爾来6期連続当選を果し、 東京都政の顔となる。 人口減で、3度も定数削減された選挙区の中で、 負け知らず強運、まれに見るラッキーボーイでもあり、 応援者の評価も高い。蛇足だが、 愛犬シーズの名は、 ラッキー。 そ して、 当時の保坂のあだなは、 「低空飛行の保坂」とか。 因に、 子供の時からは、 三ちゃんで通っている。

由緒ある井戸を守り、周辺の道路を整備。絵葉書になる。保坂が区議会議員として初めての仕事。(歴史の街・谷中で)

政治を志したきっかけは、両家の親が区議会議員との環境下にあったこともあるが、保坂は、 元々お節介な 下町人だ。 実は、 戦後、食料事情の悪化から、あの不忍池が開墾され米作が行われた。 そのままプロ野球場にしようとした。 計画を推進した読売の正力松太郎氏、作家のサトウハチロー氏の発想も自然だ。 娯楽が少ない時代の要請ともいえる野球場計画に反対した地元は、 もっと凄い。 曰く、「将来、 世の中が落ち着いた時、 失ってはならない物を失ってしまったと、 後悔しても遅い」 と警鐘乱打、予算までついた東京都案を引っくり返し、ついに不忍池の自然を守り切った。その昭和25年当時は、環境や自然保護という言葉すらなかった時代だけに、 先見性に脱帽。 その大先輩の薫陶を直接受けたのが、 議員を目指すきっかけだった。 保坂という、 地の塩を大切にする、 数少ない社会派議員誕生となったのだ。

 

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